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ゆうゆうインタビュー スティーブ・オキノ

  —— 遠路ハワイからサンディエゴを訪れた理由を聞かせて下さい。 私たちのドキュメンタリー映画 『A Most Unlikely...

ゆうゆうインタビュー ジョージ・信一・浴田

    —— サンディエゴ・アジア・ビジネス協会 ( 以下 ABA) の使命は。 ...

ゆうゆうインタビュー トム・カーマイアー

    —— SDと日本の両方に興味深い関わりをお持ちですね。 僕の兄弟も僕自身もノースカウンティーのエンシニタスで育った関係から、人生の大半をサンディエゴで過ごしました。この地で両親も出会っているし、彼らの仕事場もあったからね。僕の母は日系アメリカで、父はドイツ系アメリカ人。僕たち兄弟は典型的なアメリカン・キッズとして育ったと言ってもいい。NFL (ナショナル・フットボール・リーグ) での選手生活を終えた時、地元サンディエゴと東京からコーチをしないかという話が舞い込んできた。…暫く後の話だけど、ロサンゼルスへ向かうフライトで僕の妻となる日本人のカヨコと出会うんだ。 ...

ゆうゆうインタビュー 大田 幸人

  ステータスシンボルとしての1960年代の寿司、70年代のヘルシー志向ブーム、80年代の第1次寿司旋風、そして90年代の創作寿司と、今や日本の寿司文化はすっかりアメリカに定着しました。そして一流と呼ばれる寿司店には必ず、江戸の昔から伝わる技を、静かに確かに継承している生粋の職人がいます。 —— 板前への憧れ ...

ゆうゆうインタビュー 宮原広幸

  —— 剣道を始めた契機は。 1921年5月、私が生まれたその日から父親による剣道指導が始まりました。1918年に渡米した私の父、 宮原広次は夢を抱いてやって来た日本人移民の一人でした。海を渡った多くの日本人は、アメリカで子供が生まれると「もう日本には戻らない」と決意していました。周りの日系人と同じくアメリカ永住を決心した父は、当時としては大変レベルの高い剣道初段を持っていたことから、南カリフォルニアで剣道の指導を行うようになりました。アメリカでは1900年代初期に剣道が始まったと言われています。明治後期に生まれた日系一世の多くは小学校や中学校で剣道を教わったものです。剣道に熱中していた彼らは練習を重ねてトーナメントを開催していました。 ...

ゆうゆうインタビュー 生澤美子

  —— コスチュームデザイナーの仕事内容を具体的に教えて下さい。 舞台やコンサートの衣装を作る仕事なのですが、先ずクライアントの希望を聞いて、デザインのイメージをデッサンします。その原画を見せて先方が気に入ってくれたら、細かいデザインを決めて、生地を選んで見積りを出します。衣装のデザイナーはコストの計算もします (笑)。ですから、コスチュームデザイナーは“格好いい”イメージが先行している反面、実は地味な仕事と言えるかもしれません。衣装によっては自分で縫う作業もありますしね。 ...

ゆうゆうインタビュー 軌保博光(のりやす・ひろみつ)

  —— 「てんつくマン」の名前の由来は。 以前、僕は吉本興業の「TEAM 0」というお笑いコンビ (...

ゆうゆうインタビュー 高橋シーバソン優子

  ある保険会社の調査によると、老後の不安は「病気や寝たきり、痴ほうになる不安」が最も多く、以下「経済的な不安」、「一人暮らしなどの孤独になる不安」などが続いています。そして、米国の高齢者施設の中での日系人特有の問題は言葉と食事とも言われています。この度、「快適な住まいと安心のサポート体制」をモットーに「サンディエゴに元気な日系シニアヴィレッジを作る会」を立ち上げた同会代表の高橋シーバソン優子さんに、会創設までの経緯を伺いました。 —— 同会創設の動機とは。 ...

ゆうゆうインタビュー リオ・リヤウ

    —— アメリカに来られて、生活とビジネスの拠点に SD を選んだというのは。 理由は至極単純です…とにかく、サンディエゴは自然が素晴しい。自然愛好家の私には魅力十分。確かに、20年前のアメリカにはサンディエゴよりもビジネスの機会に恵まれた地域が他にありました。だけど、生活のクオリティーではサンディエゴの足許にも及びません。平和的な都市だし、当時は交通渋滞も無く、善良な人が多く、しかも LA...

ゆうゆうインタビュー 澁谷昌治

  —— SDで英会話教室を開校したのはいつですか。 サンディエゴへ移り住んだのが1974年。その2年後に教室を開校しているので、かれこれ27年になりますか。現在は英会話だけでなく、日本人留学生を対象とした英語全般を教えています。四半世紀前のサンディエゴと比較すると街の様子は随分変わりましたね。その当時、日本食レストランは2軒のみで、日系スーパーはダウンタウンに1軒だけ…。ミツワマーケットプレイスやニジヤさんがあるカーニーメサ地区も昔は一面畑でしたね。日系企業は京セラを含めて数社のみ。日本人は本当に少なかったですね。その頃、私が英語も日本語も話せるということを聞きつけて、駐在員の方々から「書類作成の手伝いをして欲しい」という依頼が殺到したんです。そのうち、英会話も教えて欲しいと頼まれるようになり、駐在員やその家族を対象にしたクラスを開くようになりました。 ...

ゆうゆうインタビュー 佐藤有香

  —— スケート一家に生まれたという境遇がスケートを始める契機となったのですか。 私がスケートを始めたのは3歳の頃で、当時はただ氷の上で遊んでいるだけでした。両親が日本代表オリンピック選手・全日本チャンピオンの元スケート選手でコーチをしていたため、スケートは私が幼い頃から身近な存在でした。子供の頃は父が選手として活躍していたため、母親が弟の世話で忙しい間、私は氷の上で過ごしていました。両親からはスケートについて様々なことを学びました。最初は父親から、そして私が成長するにつれ母親がコーチ兼トレーナーとして積極的に指導してくれました。最初の頃、私はスケートに対して真剣ではありませんでしたが、10~11歳になって真面目に考え始めました。が、両親は自らの経験上、スケートの道は行く手に拘束や困難が横たわり、物事がいつも計画通りに行かないことを知っていたので、あまり気乗りしなかったようです。振り返ってみると、子供の頃、私は競争ではいつもビリで、敏速で強靱というわけではありませんでした。両親は、私の運動神経は大して優れているとは思っていなかったため、私にスケートが適切かどうか確信できなかったのです。 ...

ゆうゆうインタビュー 高橋晃

—— モンゴルでのボランティア活動について話して下さい。 現在、私はサンディエゴ大学 (USD) と自ら主宰する教室で日本語を教えていますが、8月の1カ月間は休暇を取り、モンゴルの高校で無償で日本語を教えています。 ...

ゆうゆうインタビュー アラン・ペイト

  —— ゲスト学芸員として迎えられた民芸国際美術館の“NINGYO: The Art of the Japanese...

ゆうゆうインタビュー 武蔵丸光洋

  —— 90年代に、曙、若乃花、貴乃花などの優れた力士たちと大相撲の黄金時代を築いた感想は。 素晴らしい体験でした。今後しばらく、あのような時代が到来することはないでしょう。もしかすると、二度と来ないかもしれません。 今もなお、 誰もがあの時代を話題にし、現在の力士たちと比較しようとしています。...

ゆうゆうインタビュー キム・イルドン

    —— 医師を目指そうとされたのは、いつ頃。 とても遅いんです。普通に敷かれた常識的な人生のレールを歩くというか、自分の生きる道を強制されたり押し付けられたりするのがとても嫌だったんです。在日韓国人3世の私は4人兄弟の長男として神戸に生まれ、父が祖父のゴム工場を継いで比較的豊かに暮らしていたのですが、中学の時に倒産し、私の家族の経済状態は一変してしまいました。高校入学後は何の目標もなく、毎日安部公房などの文学を始めとする読書漬けの生活。1日2~3冊読むこともザラでした。学校の勉強をする暇もないくらい本に没頭しているうちに、東大の安田講堂事件が起きたりと、社会が不安であったということも手伝って、ますます自分の方向性を見失い、とうとう高校を中退してしまったのです。それからというもの、大阪の釜が崎や東京の山谷で日雇い労働者として暮らしたり、ギターを持ってぶらりと与論島に行ったりと1年ほど放浪。でも、この間に得たものは大きく、社会のどん底で暮らす人達の心優しさに触れて、相互援助の精神を叩き込まれたような気がします。 たまたま日雇いで働きに行った早稲田大学で先輩とハチ合わせとなり、彼から諭されて「これじゃいかん」と思い直し、中退した高校に復学して結局5年かかって卒業しました。しかし、卒業後も人生の目標がまだ見出せない…。大学に進む気持にもなれず、陸送の運転手をしたり、外国人相手のマイクロバスの運転手をしたりしているうちに、人生についての悩みが増大するばかり…。この悩みから解放されたいと思い、臨床心理学の本を読み漁る日々が続きました。やがて、自分の悩みは勿論、人の悩みを解決するには精神科医になるのがいいのでは…との思いが私の中でふっと沸いてきて、「そうだ、医者を志そう!」と —。その時、既に24歳近くになっていました。...

ゆうゆうインタビュー ランドール・C・フィリップス

  —— 日本と深く関わるようになった経緯を聞かせて下さい。 父親から受け継いでいる日本を愛する気持ちが引き金となっているのでしょう。面白い話なのですが、私の父は1932年頃に満州から日本へ向かう航海中に伊瀬芳吉氏 (元ダイハツ工業社長) と出会いました。父はハリウッド・ボウル近くにあるハリウッド・ファースト・メソジスト教会の牧師を務めていて、金銭的な余裕がある時に教区メンバーを連れてアジア各国を訪ねていました。その頃、中国、フィリピン、満州そして日本を訪問する予定があり、日本へ到着したら、士族の子として生まれながら中学生の時にキリスト教徒に改宗したという賀川豊彦氏に会うことになっていたのです。著作や講演などを通じて多方面で幅広く活躍を続け、近代日本の社会運動の先駆者とも呼ばれていた賀川氏は、当時、神戸市のスラムで救貧活動を行い、父は彼に会うことを熱望していたのです。日本ではキリスト教が浸透しておらず、国民の大半が神道か仏教を信奉していましたので、賀川氏は一際目立った存在となっていました。父は英語を独学で身に付けていた伊瀬氏と船上で談話を始め、自分が賀川氏に会いに行く旨を伝えたところ、「私は仏教徒だが、賀川氏については以前から興味を持っていた。是非、私も彼に会ってみたい」 と言い出したそうです。これが伊瀬氏と父、そして私達との親交の始まりでした。...

ゆうゆうインタビュー 岡田憲志

  —— 現在の仕事に就いた経緯 大阪の千里国際学園で4年間教えた後、2001年からクウェートのアメリカン・インターナショナル・スクールで教鞭を執りましたが、戦争のために引っ越すことになりました。妻の出身地であるサンディエゴと日本の選択肢がありましたが、日本だと3匹の猫の検疫費が10万円以上も掛かるというので… (笑)。それでサンディエゴを選んだというわけです。保健体育の教師をしていた間もウェイトトレーニングや有酸素運動といったパーソナルトレーニングを専門にしていましたし、その経験と能力を生かせる仕事を…と思ったんです。数社に応募した結果、現在の Wave...

ゆうゆうインタビュー 関戸順子

  急速な高齢化社会への対応に加えて、腰痛や肩こり、そしてストレスなどの現代病の治療へのニーズは年々高まりを見せていますが、日本人を始めとする数多くの患者さんへの診療を手掛け、我々サンディエガンの強い味方となっている関戸カイロプラクティックセンターが、この度、開院21周年を迎えました。 院長の関戸順子先生は、カリフォルニア州のカイロプラクターとしてのライセンスを日本人女性として2番目に取得し、また鍼灸師としての資格も所有する「療術業」の草分け的存在でもあります。最近では、血液検査に基づいた栄養学やホメオパシーのカウンセリングなども実施して顕著な効果を上げています。 そして2002年4月には、治療院2階に、州政府承認のカリキュラムを通して真のマッサージ治療師を育成するメリディアン自然医療学院を開校し、後進の育成にも当たっています。 ——...

ゆうゆうインタビュー アイリス・ヤマシタ

  昨年暮れに日米で公開された映画『硫黄島からの手紙』でアカデミー脚本賞にノミネートされ、彗星のごとく映画界にデビューを果たしたアイリス・ヤマシタさん。史実に基づいて太平洋戦争を日本側の視点から描いた作品はアメリカでも高い評価を受けた。5月22日にはDVD 版が発売されている。ウェブプログラマーを本職としながらスクリーンライターを志した動機、『硫黄島・・』の作品に関わった経緯、脚本を担当した日系アメリカ人としての思いなどを、大学の講演でサンディエゴを訪れたヤマシタさんに聞いた。 —— 硫黄島からの手紙』は脚本家としての初作品ですが、ウェブプログラマーを本職としていながら、映画脚本家になったきっかけは。 ...

ゆうゆうインタビュー ブリジット・ビレンガー・ワーナー

  —— シルク・ドゥ・ソレイユの発足までの経緯は? 1980年代の初頭に、カナダ・ケベック州出身の大道芸人グループが世界中を興行しようと決意しました。 彼らは旅を通して 他のパフォーマーと出会い、新しいスキルを学び、新しい仲間と合流しながら、観客にエンターテイメントを提供しました 。グループの中心はケベック出身のメンバーで、リーダーはアコーディオン奏者で火喰い芸や竹馬乗りの大道芸人、そして後にシルク・ドゥ・ソレイユ創立者となるギイ・ラリベルテでした。...

ゆうゆうインタビュー ドナルド・G・リンドバーグ

    —— 地球上の人々がパンダに愛着を感じていますが、この動物の魅力とは。 パンダは聖霊的な動物といいますか、他の哺乳動物には無い、人間の魂を鼓舞するカリスマ的魅力がありますね。あの不器用な動作と悪いたずら戯っぽさを見ていると、ヨチヨチ歩きの人間の幼児を思い出させますね。赤ちゃんの行動とまるで同じでしょう。木の上から転げ落ちたパンダが起き上がって、もう一度登ろうとする姿を見ているとね…。外見も独特ですが、大型の丸い頭と耳にも注目して下さい。動物行動学では「リリーサー」と呼んでいますが、この部分に感情表現を司る機能らしきものが備わっているんです。小柄でやんちゃなフア=メイ (人工授精で1999年にサンディエゴ動物園で誕生) は可愛さがあって皆の人気者でした。個人的にパンダに関心を示さなかった学者がいましたが、最初は冷淡だったのに、フア=メイと接触する時間を重ねるにつれて態度が変化していきましたね。最後には目を潤ませて、彼が私に言うんです。「こんなに感動を受けるとは想像していなかった。パンダと出会う多くの人間が同じ思いをしているんだろうね」 —と。...

ゆうゆうインタビュー 玉城 一石

  紀元前3000年頃に古代エジプトで誕生した腹話術は、司祭や預言者が自分の声を神の声のように見せかけ、民衆はそれを「お告げ」や「奇跡」などと思ったそうです。日本では1940年頃から登場しましたが、いつしか素人芸のマイナーイメージが定着してしまいました。しかし、そんな印象を払拭し、腹話術を世界に通じるエンターテイメントへと導いた日本人がいます。その名も「いっこく堂」こと、スーパー腹話術師・玉城一石さん。“声の魔術師”の異名をとるエンターテイナーの素顔を紹介します。 —— 腹話術への憧れ ...

ゆうゆうインタビュー 石井龍二

—— 渡米の契機は。 日本にいた20代前半の頃の私は定職にも就かず、その生き方はヒッピーに近い感じでした。その当時、アルバイト (今でいうフリーターの立場で) でジムのトレーナーなどをしながら細々と食べていて、何となく「アメリカに行きたいなあ」と思っている時、翻訳家の友人に勧められてある英語学校に通い始めました。アルバイトや学校で知り合った友人のほとんどが定職を持っていませんでしたね。ある仲間はニュージーランドへ渡り、私もニュージーランドへ行くつもりでしたが、タイミングが合わなくてね。少し時期を遅らせて一人でアメリカに来ました。今こうしてここに居るのも、あの時の仲間の影響があったのかもしれないですね。皆が青春時代を謳歌していました。無一文に近い状態でその日暮らしでしたけれど、毎日がとても楽しかった。 ...

ゆうゆうインタビュー マイク・アームス

  —— 動物福祉センターと一般人が共有している部分とは。 動物シェルターを訪れるアメリカ人は極く少数です。野犬捕獲員の重苦しい イメージなどをテレビで観ているから足が向かないのでしょう。しかし、現実 に置かれている私たちの環境は違います。私たちはコミュニティの一部として 自らの存在を認識しています。このことを皆さんに知って頂きたいと思います。...