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インタビュー

ゆうゆうインタビュー 澁谷昌治

  —— SDで英会話教室を開校したのはいつですか。 サンディエゴへ移り住んだのが1974年。その2年後に教室を開校しているので、かれこれ27年になりますか。現在は英会話だけでなく、日本人留学生を対象とした英語全般を教えています。四半世紀前のサンディエゴと比較すると街の様子は随分変わりましたね。その当時、日本食レストランは2軒のみで、日系スーパーはダウンタウンに1軒だけ…。ミツワマーケットプレイスやニジヤさんがあるカーニーメサ地区も昔は一面畑でしたね。日系企業は京セラを含めて数社のみ。日本人は本当に少なかったですね。その頃、私が英語も日本語も話せるということを聞きつけて、駐在員の方々から「書類作成の手伝いをして欲しい」という依頼が殺到したんです。そのうち、英会話も教えて欲しいと頼まれるようになり、駐在員やその家族を対象にしたクラスを開くようになりました。 ...

ゆうゆうインタビュー 佐藤有香

  —— スケート一家に生まれたという境遇がスケートを始める契機となったのですか。 私がスケートを始めたのは3歳の頃で、当時はただ氷の上で遊んでいるだけでした。両親が日本代表オリンピック選手・全日本チャンピオンの元スケート選手でコーチをしていたため、スケートは私が幼い頃から身近な存在でした。子供の頃は父が選手として活躍していたため、母親が弟の世話で忙しい間、私は氷の上で過ごしていました。両親からはスケートについて様々なことを学びました。最初は父親から、そして私が成長するにつれ母親がコーチ兼トレーナーとして積極的に指導してくれました。最初の頃、私はスケートに対して真剣ではありませんでしたが、10~11歳になって真面目に考え始めました。が、両親は自らの経験上、スケートの道は行く手に拘束や困難が横たわり、物事がいつも計画通りに行かないことを知っていたので、あまり気乗りしなかったようです。振り返ってみると、子供の頃、私は競争ではいつもビリで、敏速で強靱というわけではありませんでした。両親は、私の運動神経は大して優れているとは思っていなかったため、私にスケートが適切かどうか確信できなかったのです。 ...

ゆうゆうインタビュー 高橋晃

—— モンゴルでのボランティア活動について話して下さい。 現在、私はサンディエゴ大学 (USD) と自ら主宰する教室で日本語を教えていますが、8月の1カ月間は休暇を取り、モンゴルの高校で無償で日本語を教えています。 ...

ゆうゆうインタビュー アラン・ペイト

  —— ゲスト学芸員として迎えられた民芸国際美術館の“NINGYO: The Art of the Japanese...

ゆうゆうインタビュー 武蔵丸光洋

  —— 90年代に、曙、若乃花、貴乃花などの優れた力士たちと大相撲の黄金時代を築いた感想は。 素晴らしい体験でした。今後しばらく、あのような時代が到来することはないでしょう。もしかすると、二度と来ないかもしれません。 今もなお、 誰もがあの時代を話題にし、現在の力士たちと比較しようとしています。...

ゆうゆうインタビュー キム・イルドン

    —— 医師を目指そうとされたのは、いつ頃。 とても遅いんです。普通に敷かれた常識的な人生のレールを歩くというか、自分の生きる道を強制されたり押し付けられたりするのがとても嫌だったんです。在日韓国人3世の私は4人兄弟の長男として神戸に生まれ、父が祖父のゴム工場を継いで比較的豊かに暮らしていたのですが、中学の時に倒産し、私の家族の経済状態は一変してしまいました。高校入学後は何の目標もなく、毎日安部公房などの文学を始めとする読書漬けの生活。1日2~3冊読むこともザラでした。学校の勉強をする暇もないくらい本に没頭しているうちに、東大の安田講堂事件が起きたりと、社会が不安であったということも手伝って、ますます自分の方向性を見失い、とうとう高校を中退してしまったのです。それからというもの、大阪の釜が崎や東京の山谷で日雇い労働者として暮らしたり、ギターを持ってぶらりと与論島に行ったりと1年ほど放浪。でも、この間に得たものは大きく、社会のどん底で暮らす人達の心優しさに触れて、相互援助の精神を叩き込まれたような気がします。 たまたま日雇いで働きに行った早稲田大学で先輩とハチ合わせとなり、彼から諭されて「これじゃいかん」と思い直し、中退した高校に復学して結局5年かかって卒業しました。しかし、卒業後も人生の目標がまだ見出せない…。大学に進む気持にもなれず、陸送の運転手をしたり、外国人相手のマイクロバスの運転手をしたりしているうちに、人生についての悩みが増大するばかり…。この悩みから解放されたいと思い、臨床心理学の本を読み漁る日々が続きました。やがて、自分の悩みは勿論、人の悩みを解決するには精神科医になるのがいいのでは…との思いが私の中でふっと沸いてきて、「そうだ、医者を志そう!」と —。その時、既に24歳近くになっていました。...

ゆうゆうインタビュー ランドール・C・フィリップス

  —— 日本と深く関わるようになった経緯を聞かせて下さい。 父親から受け継いでいる日本を愛する気持ちが引き金となっているのでしょう。面白い話なのですが、私の父は1932年頃に満州から日本へ向かう航海中に伊瀬芳吉氏 (元ダイハツ工業社長) と出会いました。父はハリウッド・ボウル近くにあるハリウッド・ファースト・メソジスト教会の牧師を務めていて、金銭的な余裕がある時に教区メンバーを連れてアジア各国を訪ねていました。その頃、中国、フィリピン、満州そして日本を訪問する予定があり、日本へ到着したら、士族の子として生まれながら中学生の時にキリスト教徒に改宗したという賀川豊彦氏に会うことになっていたのです。著作や講演などを通じて多方面で幅広く活躍を続け、近代日本の社会運動の先駆者とも呼ばれていた賀川氏は、当時、神戸市のスラムで救貧活動を行い、父は彼に会うことを熱望していたのです。日本ではキリスト教が浸透しておらず、国民の大半が神道か仏教を信奉していましたので、賀川氏は一際目立った存在となっていました。父は英語を独学で身に付けていた伊瀬氏と船上で談話を始め、自分が賀川氏に会いに行く旨を伝えたところ、「私は仏教徒だが、賀川氏については以前から興味を持っていた。是非、私も彼に会ってみたい」 と言い出したそうです。これが伊瀬氏と父、そして私達との親交の始まりでした。...

ゆうゆうインタビュー 岡田憲志

  —— 現在の仕事に就いた経緯 大阪の千里国際学園で4年間教えた後、2001年からクウェートのアメリカン・インターナショナル・スクールで教鞭を執りましたが、戦争のために引っ越すことになりました。妻の出身地であるサンディエゴと日本の選択肢がありましたが、日本だと3匹の猫の検疫費が10万円以上も掛かるというので… (笑)。それでサンディエゴを選んだというわけです。保健体育の教師をしていた間もウェイトトレーニングや有酸素運動といったパーソナルトレーニングを専門にしていましたし、その経験と能力を生かせる仕事を…と思ったんです。数社に応募した結果、現在の Wave...

ゆうゆうインタビュー 関戸順子

  急速な高齢化社会への対応に加えて、腰痛や肩こり、そしてストレスなどの現代病の治療へのニーズは年々高まりを見せていますが、日本人を始めとする数多くの患者さんへの診療を手掛け、我々サンディエガンの強い味方となっている関戸カイロプラクティックセンターが、この度、開院21周年を迎えました。 院長の関戸順子先生は、カリフォルニア州のカイロプラクターとしてのライセンスを日本人女性として2番目に取得し、また鍼灸師としての資格も所有する「療術業」の草分け的存在でもあります。最近では、血液検査に基づいた栄養学やホメオパシーのカウンセリングなども実施して顕著な効果を上げています。 そして2002年4月には、治療院2階に、州政府承認のカリキュラムを通して真のマッサージ治療師を育成するメリディアン自然医療学院を開校し、後進の育成にも当たっています。 ——...

ゆうゆうインタビュー アイリス・ヤマシタ

  昨年暮れに日米で公開された映画『硫黄島からの手紙』でアカデミー脚本賞にノミネートされ、彗星のごとく映画界にデビューを果たしたアイリス・ヤマシタさん。史実に基づいて太平洋戦争を日本側の視点から描いた作品はアメリカでも高い評価を受けた。5月22日にはDVD 版が発売されている。ウェブプログラマーを本職としながらスクリーンライターを志した動機、『硫黄島・・』の作品に関わった経緯、脚本を担当した日系アメリカ人としての思いなどを、大学の講演でサンディエゴを訪れたヤマシタさんに聞いた。 —— 硫黄島からの手紙』は脚本家としての初作品ですが、ウェブプログラマーを本職としていながら、映画脚本家になったきっかけは。 ...

ゆうゆうインタビュー ブリジット・ビレンガー・ワーナー

  —— シルク・ドゥ・ソレイユの発足までの経緯は? 1980年代の初頭に、カナダ・ケベック州出身の大道芸人グループが世界中を興行しようと決意しました。 彼らは旅を通して 他のパフォーマーと出会い、新しいスキルを学び、新しい仲間と合流しながら、観客にエンターテイメントを提供しました 。グループの中心はケベック出身のメンバーで、リーダーはアコーディオン奏者で火喰い芸や竹馬乗りの大道芸人、そして後にシルク・ドゥ・ソレイユ創立者となるギイ・ラリベルテでした。...

ゆうゆうインタビュー ドナルド・G・リンドバーグ

    —— 地球上の人々がパンダに愛着を感じていますが、この動物の魅力とは。 パンダは聖霊的な動物といいますか、他の哺乳動物には無い、人間の魂を鼓舞するカリスマ的魅力がありますね。あの不器用な動作と悪いたずら戯っぽさを見ていると、ヨチヨチ歩きの人間の幼児を思い出させますね。赤ちゃんの行動とまるで同じでしょう。木の上から転げ落ちたパンダが起き上がって、もう一度登ろうとする姿を見ているとね…。外見も独特ですが、大型の丸い頭と耳にも注目して下さい。動物行動学では「リリーサー」と呼んでいますが、この部分に感情表現を司る機能らしきものが備わっているんです。小柄でやんちゃなフア=メイ (人工授精で1999年にサンディエゴ動物園で誕生) は可愛さがあって皆の人気者でした。個人的にパンダに関心を示さなかった学者がいましたが、最初は冷淡だったのに、フア=メイと接触する時間を重ねるにつれて態度が変化していきましたね。最後には目を潤ませて、彼が私に言うんです。「こんなに感動を受けるとは想像していなかった。パンダと出会う多くの人間が同じ思いをしているんだろうね」 —と。...

ゆうゆうインタビュー 玉城 一石

  紀元前3000年頃に古代エジプトで誕生した腹話術は、司祭や預言者が自分の声を神の声のように見せかけ、民衆はそれを「お告げ」や「奇跡」などと思ったそうです。日本では1940年頃から登場しましたが、いつしか素人芸のマイナーイメージが定着してしまいました。しかし、そんな印象を払拭し、腹話術を世界に通じるエンターテイメントへと導いた日本人がいます。その名も「いっこく堂」こと、スーパー腹話術師・玉城一石さん。“声の魔術師”の異名をとるエンターテイナーの素顔を紹介します。 —— 腹話術への憧れ ...

ゆうゆうインタビュー 石井龍二

—— 渡米の契機は。 日本にいた20代前半の頃の私は定職にも就かず、その生き方はヒッピーに近い感じでした。その当時、アルバイト (今でいうフリーターの立場で) でジムのトレーナーなどをしながら細々と食べていて、何となく「アメリカに行きたいなあ」と思っている時、翻訳家の友人に勧められてある英語学校に通い始めました。アルバイトや学校で知り合った友人のほとんどが定職を持っていませんでしたね。ある仲間はニュージーランドへ渡り、私もニュージーランドへ行くつもりでしたが、タイミングが合わなくてね。少し時期を遅らせて一人でアメリカに来ました。今こうしてここに居るのも、あの時の仲間の影響があったのかもしれないですね。皆が青春時代を謳歌していました。無一文に近い状態でその日暮らしでしたけれど、毎日がとても楽しかった。 ...

ゆうゆうインタビュー マイク・アームス

  —— 動物福祉センターと一般人が共有している部分とは。 動物シェルターを訪れるアメリカ人は極く少数です。野犬捕獲員の重苦しい イメージなどをテレビで観ているから足が向かないのでしょう。しかし、現実 に置かれている私たちの環境は違います。私たちはコミュニティの一部として 自らの存在を認識しています。このことを皆さんに知って頂きたいと思います。...

ゆうゆうインタビュー マイケル・シャナハン

  —— サンディエゴの名所の一つとなったスター・オブ・インディア号が当地にお目見えした時期は。 スター・オブインディア号は地元の人々だけでなく、観光客にも知られるサンディ エゴの象徴的な存在となりましたが、この帆船が当地に来たのは 1927 年のことです。...

ゆうゆうインタビュー 大渡浩平

    —— 造園業、不動産業、シーカヤックツアー会社設立…。職業歴から活動的な人生が伝わってきますが、少年時代から行動力に溢れていた…。 兵庫県の田舎の兼業農家に3人兄弟の末っ子として生まれましてね、周りは手付かずの荒削りな自然だけというド田舎でしたから、遊びというと自然と戯れることしかなかったんです。山川草木の中を走り回っていると、とても幸せな気分になり、子供心に「これが最も自分に合っている生き方なのかな」と感じていました。自然から人間の本来あるべき姿というか、何かを学んでいたと思います。高校時代はアマチュア無線に没頭し、拙い英語で世界中の人と交信しているうちに、漠然と「海外に出たい」と思うようになっていました。特に、熱帯作物とか熱帯果樹にも興味があったので、アルゼンチン、コスタリカなどの国をぼんやりと思い浮かべていました。それは、世界の雄大な自然の中に我が身を置いてみたいという願望だったと思います。 ...

ゆうゆうインタビュー ラケル・ジスカフレイ

  —— アキュラ・クラシックは世界が注目するテニストーナメントですが、ここまで成長した経緯を話して下さい。 私が現役の頃、トーナメントの舞台裏について常に興味を持っていました。ʼ60年~ʼ70年代は現在と異なり、主催者に認められた者のみが光栄にも出場権を与えられるという、社交的なイベントとしての性格を備えていました。プロ=アマで活躍していた私などはパーティーへ招待されることもありました。こうして、漠然としながらも大会の運営活動について興味を持つようになったのです。1977年に引退後、南米でテニストーナメントの運営を始めました。基本的に私一人で担当していたので相当な苦労がありましたが、生活のため、そして30年間過ごしたテニス界を離れたくないという思いで頑張りました。WTA (女子テニス協会) ツアーのダブルスに出場している時にジェーン・ストラットン選手と出会い、友人になりました。引退後、どのようにテニスに携わっていこうかと以前から語り合っていましたので、彼女が南米トーナメントに参加する際には、選手の視点から私の運営方法を見てもらい、色々と助けてくれました。後に私達は、アキュラ・クラシックを主催するプロモーション・スポーツ社の母体となる機関で働くようになったのです。 ...

ゆうゆうインタビュー ブライアン・リーマス

  ——「バイク・フォー・ブレインズ」はどういうグループですか。 「バイク・フォー・ブレインズ」は非営利財団でサイクリングのイベントを通して基金を集めます。私たちの目標は、サンディエゴ小児病院 (Children's Hospital) の神経科へ即時対応のMRI装置 (磁気共鳴映像法)...

ゆうゆうインタビュー 石田 真紀

  ECHL所属のプロアイスホッケーチーム、サンディエゴ・ガルズのチアリーダーのオーディションに、日本人として初めて合格した石田真紀さん。本場アメリカのチアス ピリットに触れ、自身のさらなる飛躍と、日本のチアリーダー界の向上を目指してい る真紀さんに、その熱い思いを語って頂きました。 ...

ゆうゆうインタビュー ジョン・海山・ネプチューン

  —— 尺八という楽器について教えて下さい。 尺八にはさまざまな側面があります。尺八は 1,000 年以上前に禅僧によって中国から日本へ伝えられたと言われています。かつて尺八奏者たちは、それを音楽ではなく、単なる瞑想の道具として用いていました。日本の伝統楽器である尺八は、明治時代までは長さ 1...

ゆうゆうインタビュー シスター・ヘレン・マックヒュー

  —— SDで英語を教えていた先生が日本に興味を抱き、深く関わるようになった理由を聞かせて下さい。 日本への興味は当初からございました。私の家族が懇意にしている友人の中に日本人がおられたのも理由になると思いますが、正直に言うなら、日本と深い関わりを持つまでに少々回り道をしています。私はサンディエゴ大学で教鞭を執ってきましたが、研究休暇を得る権利を取得したのは英語学科の主任を務めた’70年代後半になってからです。私は昔から英語教授として言語学に関心を寄せていたので、スコットランドで1セメスター (約半年間) を過ごすという計画を立てたこともありました。残念ながら、大学側はそんな短期間の計画に賛同してくれず、逆に3年プランを呈示してきたのです。「3年間は長すぎる」 とばかりに、私は英国のオックスフォード大に目標を定めて入学を果たし、憧れのトリニティ・カレッジ...

ゆうゆうインタビュー 鈴木啓之

  —— 牧師として体験したアメリカでの忘れられない出来事とは。 クリスチャンに転向した元暴力団員で構成されるミッション・バラバ (キリストを身代わりに処刑を逃れた極悪人の名に由来) の第3代会長に就任した翌年の1998年に、当時のクリントン大統領から朝餐会に招待されてスピーチを行う機会を与えて頂いたことです。その2年前に私達一行がハワイに伝道した際、ビザなしで渡米した私達は 「前科者はビザが必要」...

ゆうゆうインタビュー アレキサンダー・チュアン

  —— サンディエゴ中国歴史博物館が創設された経緯は。 1985年に地域の歴史遺産の保存を目的として、中国系アメリカ人グループのサンディエゴ&バハカリフォルニア華人歴史学会がトム・ホム氏やバディー・ウォン氏らによって創設されました。私がこの団体に参加した1987年から、一般人がこれらの歴史遺産に触れることができるようにと博物館の建設に向けて動き出したのです。 Santa...