ゆうゆうインタビュー 古賀三郎

    —— 彫刻家を志した理由とは。 私は 4 人兄弟の末っ子で、共働きをしている両親の下で育ちました。それほど裕福な家庭ではなかったので、カチカチの泥ダンゴや木の弓などの自分で作った玩具で遊んでいました。5 歳の頃から小刀を器用に使っていたと思います。こうした遊びの中で、モノを作る喜びというものを自然に身に付けていきました。小学 3 年生の時に長崎から横浜へ引っ越したのですが、転校先の工作の授業で描いたポスターの構図が良いと先生に褒められ、その日以来、机に絵を描いたり、鉛筆に彫刻をして楽しむようになりました。先生のあの一言が私を彫刻家にしてくれたのだと思います。 ——アメリカとの接点とは。 自分で作った玩具で遊んでいた子供時代 (1954年/ 3歳) 私の両親は長崎原爆の被爆者でした。長崎の方言でよく「きつか、きつか」(疲れた、疲れた)と言っていました。被爆者はガンになりやすいと聞いていましたが、父は肺ガンで21年前、母は子宮ガンで19年前に逝きました。終戦後、広島や長崎といった被爆地には長期に渡ってアメリカ軍が駐留していました。異国情緒が漂う長崎の街には、私が5歳になるまでアメリカ兵の姿がありました。当時の私は、今では信じられないほど色白で髪の毛も赤っぽい色をしていました。アメリカ兵は私のことをハーフだと思い込んでいたらしく、友達と一緒に歩いていると、私にだけに5円玉や10円券をくれたんです。当時の10円といえば大金で、父親に「どこで盗んできたんだ」とよく怒られました。造船技師だった父親の日給よりも稼いでいたかもしれません(笑)。子供ながらも、身振り手振りでアメリカ兵と上手く会話をこなしていましたね。英語のリズムや抑揚が好きで、洋画のセリフをよく真似していたのです。お陰で、中学の英語の授業では発音が良いと先生から褒められました。 —— 彫刻家として本格的に歩み出した時期は。 知り合いの紹介で、中学3年の春休みに両親に連れられて、長崎在住の若手彫刻家・北村与八(よ はち)さんを訪ねました。顔は「鬼瓦」を思わせる強面(こわもて)、頭は「大仏」のような天然パーマがトレードマークという強烈な印象の持ち主でした。高校は卒業しておいた方がよいという母親の願いもあって、一応は進学しましたが、「弟子になるなら早い方がいいぞ」という与八さんの言葉が頭から離れず、中学校の延長のような高校の勉強にも全く興味が湧きませんでした。「腕に技術を付けることは素晴らしい。日本は輸入した原料を独自の技術で製品化して、敗戦のどん底から這い上がってきた。モノを作ることはいいことだ。早い方がいい」という父の一声で、高校を3日で自主退学して弟子入りを決めました。 —— 修業生活の様子を教えて下さい。 35歳の熱血師匠に弟子入りした15歳の1日はとても長く、分刻みのスケジュールで動いていました。午前6時起床。掃除、市場へ買い出し、朝食の準備に後片づけ、そして8時半から仕事。昼も夜もおさんどんに明け暮れ、就寝前にデッサンの勉強をしていました。師匠は手を取り足を取り…なんて教えてくれません。 単純にマニュアル化できないから、見習いは文字どおり「見て習う」ほかに方法が無いのです。師匠の手先の動きや道具の使い方をひたすら見ていました。3か月目にいわゆるホームシックに罹りましたが、「モノ作り」の楽しさの力が勝っていたので脱走せずにすみました。月に2日の休日はありましたが、実際のところ散髪と洗濯以外は何もできませんでした。5年で年季が明け、師匠から特注の彫刻刀一式200本とスーツを頂きました。翌年からは「職人」の扱いで「お礼奉公」をさせてもらい、僅かながらも月給を頂けるようになりました。 ——渡米を決意した経緯は。 横浜で開催された路上パフォーマンス (1973年/ 22歳) 1972年に21歳で彫刻家として独立し、横浜を拠点に活動を始めました。全国の寺院や民家からの注文彫刻、そしてアクセサリー製作などを手掛けていました。そんなある日、「アメリカはでかいぞ、カリフォルニアの空は色が違う」と、ライオンズ・クラブの関係で海外を飛び回っていた知人の画家からアメリカ行きを勧められたのです。「ヒッピー」「ウッドストック」「ピーコック革命」「いちご白書」などの世相が日本にも伝えられて数年が過ぎていましたが、ギターを片手にフォークソングにもハマっていたことから、彼の言葉でアメリカがグッと近くに感じられたのです。そして、自分の彫刻でどこまでやれるか、可能性を試したくなった私は1976年に休暇を兼ねてロサンゼルスへ渡りました。でも、仕事の当てがあるわけでもなく、飛び込みで日系の建設会社に出向き、自分の作品の写真を見せながら営業に精を出しました。すると、ある社から「こんな立派な彫刻を購入してくれる家は紹介できないが、何か仕事はあるかもしれない。ここで働いてみないか」と、思いがけない言葉が返ってきたのです。そして、半年後に改めて渡米することを約束して私は会社を後にしました。その私を日本人の社員が追いかけてきたのです。話を聞いていたというその男性は、仲間同士で会社設立を考えていることを私に告げ、一緒に働かないかと誘ってくれたのです。 物件を購入して内外装に彫刻を施し、個性的な住居を作り上げる会社の方針に魅力を感じてその仕事を選び、半年後に改めてロサンゼルスにやって来ました。 —— … Read more

ゆうゆうインタビュー テリー・ケネディ

    —— サンディエゴで長年大リーガーとして活躍された後、再び戻ってきた今の気持は。 悪くないですね。私が現役時代に最高のシーズンを過ごしたサンディエゴに帰ることができたのですから、とても幸せです。この仕事を引き受けたのも、それが一つの理由でした。自分がかつて成功を収めた場所で、今度は新しいゴールデン・ベースボール・リーグ ( 以下、GBL) を通して再び人々と触れ合い、野球への情熱を分かち合いたかったのです。 ——新リーグGBLについて紹介して下さい。 新設されたGBLは独立した野球のプロフェッショナルリーグです。カリフォルニア州とアリゾナ州に8チームを抱えて、サンディエゴ州立大学キャンパスにあるトニー・グウィン・スタジアムで5月から9月にかけて90試合が予定されています。ほとんどの試合はナイトゲームですが、日曜日はデイゲームも開催されます。8チームのうち1チームは日本から参加する「ジャパン・サムライ・ベアーズ」で、全ての試合を敵地で戦います。GBLのもう一つのユニークな特徴は連盟が全チームのオーナーであるということ。つまり、あらゆるエゴを排除して、チームに最も適した方法を追求することができる点です。GBLは単なるゲームというだけでなく、それをエンターテイメントとして提供します。 —— サンディエゴ・サーフドウグスのホームであるトニー・グウィン・スタジアムでは、その名が付いたトニー・グウィン氏がSDSUで監督をしていますが、お二人はパドレスで長年の良きチームメイトだったのですね。 その通りです。あまり知られていませんが、入団した当時のトニーは平均的な野手でした。ところがその後、彼は何度ゴールドグローブを受賞したでしょう…10回です! 彼は優れた外野手に成長したのです。打者としての活躍ぶりは説明するまでもありません。彼はゲームや投手について学ぶべき点があったものの、バッティングに関しては安打製造機と呼ばれるほどの天才でした。全ては彼の惜しまぬ努力から生じた産物です。彼は毎日早くから打撃練習に取り組み、私の覚えている限りでは素振りの練習に余念がありませんでした。 —— パドレス、カーディナルス、オリオールズ、ジャイアンツなどのチームで活躍されたご自身が、GBLやサーフドウグスに関わるようになった経緯は。 昨年、私がドジャーズ傘下にあるマイナーリーグの3Aチームに所属していた時、GBLの選手人選担当ニック・ベルモンテから誘いの連絡が入ったのです。私は最初はあまり乗り気ではなく曖昧に応対しましたが、とにかく話を聞くために連盟の事務所へ向かったところ、意外にも1日で契約書にサインする運びになりました。私は彼らの運営姿勢に感銘を受けたのです。連盟が全チームを所有し、MLBのナショナルリーグのルールに従うという2点が気に入りました。 ——サンディエゴ・サーフドウグスでの役割は。 私はサーフドウグスの監督であり、二軍チームの管理者でもあり、他にもスカウト、PRと何でもこなします。全てが楽しい仕事です。私はこうしてリーグや選手たちについてのインタビューを受けることも楽しんでいます。世間ではGBLに対して疑問視する向きもありますが、懸念は直ちに払拭されるでしょう。皆さんが野球観戦に訪れた時、私たちを見て一目瞭然に理解に及び、誰でも楽しむことができるはずです。野球が備えている美点は、どんなゲームにも人を惹き付ける力があることです。監督としての私には、今まで体験したことのなかった全てをコントロールする権限があります。大リーグ傘下のチームには常に上層部が存在し、人選についての発言力を専有していました。第1、第2、第3候補で選択された選手がいれば、彼らは実力相応であろうがなかろうがプレイすることが可能です。でも、このリーグでは私の考え方と選択権が優先されます。それ以外の面では、私が所属していた大リーグ機構と同じです。チームにはあらゆる種類の選手が集まっています。契約を交したばかりのリッキー・ヘンダーソンのように大リーガーとしての名声を確立した者もいれば、経験の乏しい無名選手も含まれています。現在、キャンプには31名が参加し、各選手が24名の選手枠を目指しています。その中の15名に対して私は良い印象を抱いていますが、残りの枠に誰が選ばれるのか見当がつきません。登録選手を決定するには厳しい選考を要します。ここでは確実な約束や取引などは存在せず、純粋に野球の実力に基づいて選ばれるのです。 —— 野球一筋の人生を歩んでこられたのですね。 Garrett Cook and Juliana Paoli (GM) ええ。しかし、始めの頃は今とは違った野球への接し方をしていました。当時の私は名声を得る手段として野球を考えていたと思います。その意味では、今の方が思い入れは深いでしょうね。昔の私は金銭欲はありませんでしたが、ただ優れた選手になりたかったのです。脱落することだけを恐れていました。 —— 誰もが子供時代に野球を楽しんだ経験があると思いますが、少年たちの夢である大リーグで活躍し、しかもオールスター戦やワールドシリーズにも出場していますね。 … Read more

ゆうゆうインタビュー 大塚晶則

  —— 今シーズンのパドレスの雰囲気 5月にチームの月間最多勝利(22勝)を記録してNL西地区の首位に立ち、去年と比べると自信とまとまりが感じられますね。強いチームになったという感触がある。デイブ・ロバーツとウッディ・ウィリアムズの両選手がムードメーカーとなり、試合中は勿論、クラブハウスでも盛り上げてくれて、チームが勝つとお祭り騒ぎになります。オヘダがサヨナラヒットを打った時 (5月30日・対ブルワーズ戦) もビールを掛け合ったり、踊ったり(笑)。とにかく、最後まで試合を諦めないという気持が強いですね。 ——メジャー2年目の意欲 デビューの昨シーズンは、渡米前から自分が成功するイメージを心の中で描き続け、それが現実になった素晴らしい年でした。今年はキャンプの時に、得意のスライダーに加えて相手を惑わせる投球も必要だと思い、チェンジアップやフォークを身に付けたいとコーチに申し出たら、即座に「その必要はない。お前の防御率は1点台でホールド数はリーグ1位だ。肩や肘を痛めたらそれこそ大変だ」とバッサリ斬られてしまいました。僕としてはもっと自由に試してみたかったのですが、自分のスライダーにコーチが絶大な信頼を置いていることを改めて認識しました。今シーズンもスライダーをウイニングショットに勝ち進んでいきます。 —— 結果を出せなかった時 打たれた時は、そりゃぁ辛いですよ。そんな時は何もしたくないですよね。英語の勉強なんてやってられるかと思いますしね(笑)。それでも原因は自分で分かっているし、僕はいつも「やるべきことをやれば良い結果が出る」と割り切っています。ピッチングというのは微妙で、投げているうちにフォームが1インチだけズレても、その誤差が悪い結果となって現れます。修正と調整の繰り返しですね。結果が出なかった時は、遠征先だったら悔しくて寝つくことができません。ホームゲームだったら家族が癒してくれますけどね。 —— 家族の協力を得て 嫁さんの全面的理解があったから、日本のプロ野球で活躍できたし、僕の夢がメジャーに向いて、アメリカでのチャレンジも実現できたのは確かです。僕は成功することしか思い描いていなかった。まともに考えると無謀ですよね(笑)。でも、そういう強い気持があれば、心に描いていたことは実現するでしょうから。僕は多くのことをメジャーリーグで体験しています。アメリカでの経験を積んでいく中で子供たちも成長していくし、人生面でも良いアドバイスができるお父さんになりたいですね。息子が野球選手になりたいと言うなら応援するし、僕よりも優れた選手になって「歌って踊れる選手」を目指してほしいですね(笑)。シーズン中は野球選手、オフシーズンには芸能界で歌手や役者にもなれるようなタレントにね… (笑)。 ——遠征先での楽しみ 和食党なので、遠征先のホテルで評判の良い日本食レストランを聞いて出かけます。シアトルでは長谷川滋利投手とよく一緒に食事しますね。僕らがサンフランシスコに遠征した時にホワイトソックスがオークランドに来ていて、高津臣吾投手と食事をする機会もありました。日本人選手とは携帯電話で連絡を取り合っています。向こうがホームゲームの時は家族がいるから、あまり邪魔をしたくないし、せいぜいランチを共にするくらいですね。 —— コーキーズのCM出演 テレビで実況中継を担当しているマーク・グラント氏からコーキーズ (シロアリ駆除会社) が僕を起用する意向があると聞いて承諾しました。撮影は2~3時間で終了しました。どこでウけたかというと、僕がバットで料理を目茶苦茶にするシーン(笑)。今年もコーキーズがCM契約をしてくれて、そのシーンを入れながらほのぼのさも加えて「面白系」でまとめています。僕も嫁さんもアイデアを出しました。「新バージョンをお楽しみに!」という感じですね (笑)。 —— ファンの皆さんに一言 ペトコ・パークで 「頑張れ!」と叫ぶ日本語の声援を背に受けると奮い立たされる気持になります。球場内外でも激励の言葉をかけて頂いて、いつも勇気をもらっています。皆さんの期待に応えられるようにプレーオフに進出し、ワールドシリーズに出場して、その雰囲気を楽しんでもらえるように頑張ります。ワールド・チャンピオンになることができたら、僕もファンも最高の喜びですから。 大塚 晶則 千葉県千葉市花見川区出身。1972年1月13日生。182cm/90kg。右投げ/右打ち。横芝敬愛高-東海大-日本通運を経て1997~2002年に … Read more

ゆうゆうインタビュー スティーブ・オキノ

  —— 遠路ハワイからサンディエゴを訪れた理由を聞かせて下さい。 私たちのドキュメンタリー映画 『A Most Unlikely Hero』 が公共の TV 放送に取り上げられるという貴重な機会が与えられ、多数のサンディエゴ市役所職員を始め、市多様化委員会、多様化情報資源委員会、そして多様人種研修に関わる人々と共にその番組に出演するために来ました。人種間、民族間に引かれた実態のない境界線を越えて、互いの存在価値を認識し、相互関係を改善していく試みは素晴らしいことです。価値のあるミッションへの参加が実現できたことを誇りに思います。 ——ドキュメンタリー 『A Most Unlikely Hero』 の主題は、時代遅れで狭量な信念を過去に葬るということでしたね。 その通りです。作品について簡単に説明すると、この映画は勝ち取れる可能性のない正義のための闘いを5年間続けたブルース・ヤマシタについての物語です。ブルースが士官候補生学校(OCS)時代に受けた差別的扱いと除籍処分に対して、米海兵隊を相手にした長期にわたる法廷闘争をドキュメンタリーで追っています。私たちはこの作品で、違う角度から見た勇気やヒロイズムの解釈を提唱したかったのです。民主主義の素晴らしさを伝えつつ、それぞれの人種に勇気を与えるとともに、誰でも世間に一石を投じて変化を起こし、成功を手中にできることを知ってほしかったのです。ラテン系、アジア系、アラブ系などの如何なる人種のアメリカ人であろうと、それぞれの苦闘と努力を通じて達成した業績を認識することが大切なことです。この映画のテーマはまさにそれなのです。同時に、地球を取り巻く状況は、ご存知のように不安定で危険が差し迫っています。そんな時代に生きている私たちにとって、公民権としての市民的権利、基本的人権、言論・行動の自由が保障される市民的自由がこれまで以上に重要であることは明らかです。それも私たちが映画を通して伝えたかったテーマの一つです。 —— ヤマシタ氏の苦闘は万人の正義と平等に向けた戦いだったのですね。 Steve, sharing his insights and experiences ある意味ではそうです。この話は日本人を祖先に持つハワイ出身者で、因襲の犠牲となった世代の人物像を歴史に基づいて綴っています。人々はこのストーリーが今の私たち一人一人に深く関わっていることを理解するはずです。この18カ月間、基本的に私たちはそれを伝えるために全米そして日本中を駆け回り、人々の共鳴を得るべく映画観賞会を行ってきたのです。 —— ヤマシタ氏と関わるようになった経緯は。 私はホノルルの日系人市民連合(JACL)を通してブルース・ヤマシタの裁判を知りました。彼は誰からの援助も得られず、止むなく組織に支援を求めたのです。誰も彼に手を貸さなかった理由は、率直に言うと、裁判の内容や彼の身に起きた事柄のためではなく、それが軍に関連することだったからです。最高裁判所の判例を持ち出すまでもなく、私たちは機会均等や差別禁止条項などのあらゆる平等規則に従うよう定められています。しかし、軍においては例外なのです。その状況を知った私たちは、経験のためにもブルースの裁判を支援することにしたのですが、実際のところ、どれくらい大変なことになるのか見当もつかないままに関わることになりました。 … Read more

ゆうゆうインタビュー 軌保博光(のりやす・ひろみつ)

  —— 「てんつくマン」の名前の由来は。 以前、僕は吉本興業の「TEAM 0」というお笑いコンビ ( 相方 : 山崎邦正氏 ) を組んで「ダウンタウン」さんの TV 番組を中心に活動していました。その後、映画出演を機に映画制作に対する情熱が芽生え、1994 年に吉本興業を退社して映画界へ転向しました。その 4 年後に、映画制作資金調達の手段として、お客様を見たままにインスピレーションで即興詩を書き下ろす「路上詩人」をスタートしました。道端に座り、何万人もの人々と出会ううちに「これほどまでに人間が悩んでいる。それが世の中なんだ…」という現実を目にして心が痛んだのです。やがて「天国は行くものでなく作るもの。笑顔いっぱい、緑いっぱいの天国をこの世に出現させる !」との思いが僕の中で溢れ出し、今から 3 年前、自分が敬愛する坂本龍馬の生誕日であり命日である 11 月 15 日に本名を封印することを決意し、「てんつくマン = 天国を作る男」として生まれ変わりました。 ——路上詩人になるまでの経緯は。 資金調達の最終プロジェクトとして、2001年7月に自転車による日本一周の旅をスタート 吉本興業を退社後、映画制作を目指して夢中で駆け抜けてきましたが、資金と準備不足からクランクイン2日前に制作延期という結末を迎えてしまいました。映画のプロジェクトチームは解散となり、手元には借金だけが残り、ゼロからというよりマイナスからの再出発になってしまったのです。 そんなある日、僕が落ち込んでいると勘違いした知人が「合コン」を設定してくれました。そこで優しい言葉を掛けてくれた女性と出会うことができ、電話番号を交換して、翌日に期待を込めて連絡を入れてみたのです。ところが、前日の態度とは異なり、驚くほどテンションの低い彼女が電話口に出てショックを受けてしまいました。僕はろうばいしながらも、突然頭の中に「あれはワインのせい?」という言葉が浮かんできたのです。その言葉をどうしても紙に書き留めたくなり、たまたま机の引き出しに筆と墨汁が入っていたので書き始めたところ、無数の言葉が頭の中に溢れ出して筆が止まらなくなってしまったのです。これまで習字の心得など全く無かったのに、一気呵成(い っきかせい)に72種類の詩を書き下ろしていました。そして、僕の書いた言葉をみんなに見てもらいたいと思うようになり、コピーした作品を1枚20円で路上販売するようになったのです。 … Read more

ゆうゆうインタビュー アラン・ペイト

  —— ゲスト学芸員として迎えられた民芸国際美術館の“NINGYO: The Art of the Japanese Doll” について話して下さい。 全米で最有力と言われる 7 人の日本人形の貸し手が集結する、日本国外では最も包括的な展示会です。日本でもこれだけ充実した内容の日本人形展は開催されなかったと思います。勿論、日本には優れた作品が数多くありますが、本展の内容も決して遜色がありません。 展示会では日本人形の 6 つのカテゴリーに焦点を当てます。御所人形、雛人形、武者人形、衣装人形、からくり人形、そして健康祈願の人形です。世界各国にはそれぞれ特有の人形文化が存在していますが、これは人間の本能的な表現芸術であると言えます。 日本人形の起源は日本の先史時代まで遡ります。紀元前 4000 年から 3000 年の縄文時代に、人々は粘土で作られた小立像を豊作祈願に用いていました。それ以降、人形は豪華な儀式を含めた慣習のなかで歴史的、考古学的、文化的に重要な役割を果たすようになり、日本の精神や社会的意味合いが人形に吹き込まれていきました。そのため、人形は日本人の心の中に深く根づいており、彼らの人形に対する思い入れの強さは他国人とは異なります。古い人形は家族代々、手から手へと受け継がれていきます。教育制度が発達した今日の日本でも、人々は人形にかつての保有者の霊的要素を感じ取り、家へ持ち帰ることを拒みます。このように人々の畏敬が込められた存在として扱われ、他の芸術様式とは一線を画する人形だからこそ、日本国外でも、今回のような大規模な形でコレクションを一堂に集めることを可能にしたと言えるのです。 ——英語の“doll”に含まれる意味合いは“Ningyo”ほど深みがないのですか。 そう言えるでしょう。“doll”の訳は「人形」となりますが、そこには日本語の「人形」が持つ精神的、性質的な豊かさを内在する深い意味は読み取れません。“doll”は「人形」とは程遠く、英語にはそれを正しく表現する言い回しが存在しないのです。なぜなら“doll”は玩具であり、軽々しい存在であるのに対し、「人形」はそれとは逆に、重い存在価値を認めている意味が含まれているからです。私たちは先ず、多くの日本人形は子供のために作られたのではないという事実を説明しなければなりません。それらは鑑賞用であったり、大人たちが始めた特定の儀式に使われたりしたのです。 —— 日本人形の芸術様式は遠い昔から存在しているとのことですが、今回の展示会で紹介される様式が誕生した時代は。 平和と安定に支えられ、急速に繁栄する社会の中で発展した江戸時代です。裕福な世の中で、人々は人形を含めた芸術に興味を示し、それまで到達し得なかった様式を確立していきました。室町時代や桃山時代にも貴族たちが人形を取り上げましたが、それは非常に初歩的な未発達のスタイルでした。それが江戸時代に入ると、急速に別のスタイルへと発展します。私が思うに、人形文化は江戸時代に絶頂期を迎えたのです。その後、人形の価値は減少し続けています。現代の人形アーティストは不快に思うかもしれませんが、その原因は時代文化に共鳴する姿勢の欠落だと思うのです。芸術的手腕を備えた現代の職人が素晴らしい人形を持ってきても、私は敬意を表しつつも、彼らが行っていることと過去に行われたことに同義性を感じることができないのです。西洋のテクノロジーが紹介され、無色油状のアニリン染料の登場や製造過程の変化により、人形の存在意義に違いが生じたのだと思います。アンティーク人形には時代、様式、技術、材料などが影響します。それは時間を逆行してまろやかに熟成し、私が敬愛する品質を与えられていきます。そして、ほ のかでありながら、他では認められない個性が生まれるのです。 —— 日本人形の素材は何ですか。 Ningyo … Read more

ゆうゆうインタビュー アイリス・ヤマシタ

  昨年暮れに日米で公開された映画『硫黄島からの手紙』でアカデミー脚本賞にノミネートされ、彗星のごとく映画界にデビューを果たしたアイリス・ヤマシタさん。史実に基づいて太平洋戦争を日本側の視点から描いた作品はアメリカでも高い評価を受けた。5月22日にはDVD 版が発売されている。ウェブプログラマーを本職としながらスクリーンライターを志した動機、『硫黄島・・』の作品に関わった経緯、脚本を担当した日系アメリカ人としての思いなどを、大学の講演でサンディエゴを訪れたヤマシタさんに聞いた。 —— 硫黄島からの手紙』は脚本家としての初作品ですが、ウェブプログラマーを本職としていながら、映画脚本家になったきっかけは。 私は以前から趣味で執筆活動を行っていました。私の両親はアジア人で、現実的観点から 「実用的な」仕事に就くように勧められました。そこで、フルタイムでウェブプログラマーとして働きながら、UCLA の公開講座を受けていたのです。もともとは小説を書くつもりでしたが、実際には作品を書き上げるのに大変苦労しました。脚本のクラスを受け始めてから、私には短いフォーマットが向いていると気付いたのです。 『硫黄島からの手紙』は『父親たちの星条旗』に続くクリント・イーストウッド監督の戦争2部作。撮影現場で主演の渡辺謙に指示を出すイーストウッド監督 © Warner Bros. Pictures ——『 硫黄島からの手紙』の執筆意欲をそそられた理由は。脚本に取りかかる際、 作品に対して日系アメリカ人としての特別な思いがありましたか。 日本人の視線から硫黄島の戦いを描くというのは、監督であるクリント・イーストウッド氏のアイデアです。私がこの作品の脚本家に抜擢てきされたのは、 私が日系アメリカ人であるということが大きく作用したと思っています。 —— 日系二世であるご自身の家族背景について話して頂けますか。 私の両親は日本で生まれ、1960 年代に渡米しました。父はフルブライト奨学金を受けてアメリカに留学しました。父は現在、ロサンゼルスで眼科医を営んでいます。主婦だった母は2005 年に亡くなりました。1 歳年上の姉はロサンゼルスの広告代理店に勤務しています。 —— 硫黄島からの手紙』に対するご家族の反応は。 脚本担当が決定し、それを両親に告げたら 「クリント・イーストウッドって誰なの?」と聞き返されました。私の両親は映画観賞の趣味がなかったのです。母は映画が完成する前に亡くなったため、残念ながら作品を観ることができませんでした。 父を始め、私の親戚一同も、この作品をとても誇りに思っています。 硫黄島の慰霊碑の前で握手する日米の遺族ら=東京都小笠原村(2006年3月)© … Read more