ゆうゆうインタビュー 古賀三郎
—— 彫刻家を志した理由とは。 私は 4 人兄弟の末っ子で、共働きをしている両親の下で育ちました。それほど裕福な家庭ではなかったので、カチカチの泥ダンゴや木の弓などの自分で作った玩具で遊んでいました。5 歳の頃から小刀を器用に使っていたと思います。こうした遊びの中で、モノを作る喜びというものを自然に身に付けていきました。小学 3 年生の時に長崎から横浜へ引っ越したのですが、転校先の工作の授業で描いたポスターの構図が良いと先生に褒められ、その日以来、机に絵を描いたり、鉛筆に彫刻をして楽しむようになりました。先生のあの一言が私を彫刻家にしてくれたのだと思います。 ——アメリカとの接点とは。 自分で作った玩具で遊んでいた子供時代 (1954年/ 3歳) 私の両親は長崎原爆の被爆者でした。長崎の方言でよく「きつか、きつか」(疲れた、疲れた)と言っていました。被爆者はガンになりやすいと聞いていましたが、父は肺ガンで21年前、母は子宮ガンで19年前に逝きました。終戦後、広島や長崎といった被爆地には長期に渡ってアメリカ軍が駐留していました。異国情緒が漂う長崎の街には、私が5歳になるまでアメリカ兵の姿がありました。当時の私は、今では信じられないほど色白で髪の毛も赤っぽい色をしていました。アメリカ兵は私のことをハーフだと思い込んでいたらしく、友達と一緒に歩いていると、私にだけに5円玉や10円券をくれたんです。当時の10円といえば大金で、父親に「どこで盗んできたんだ」とよく怒られました。造船技師だった父親の日給よりも稼いでいたかもしれません(笑)。子供ながらも、身振り手振りでアメリカ兵と上手く会話をこなしていましたね。英語のリズムや抑揚が好きで、洋画のセリフをよく真似していたのです。お陰で、中学の英語の授業では発音が良いと先生から褒められました。 —— 彫刻家として本格的に歩み出した時期は。 知り合いの紹介で、中学3年の春休みに両親に連れられて、長崎在住の若手彫刻家・北村与八(よ はち)さんを訪ねました。顔は「鬼瓦」を思わせる強面(こわもて)、頭は「大仏」のような天然パーマがトレードマークという強烈な印象の持ち主でした。高校は卒業しておいた方がよいという母親の願いもあって、一応は進学しましたが、「弟子になるなら早い方がいいぞ」という与八さんの言葉が頭から離れず、中学校の延長のような高校の勉強にも全く興味が湧きませんでした。「腕に技術を付けることは素晴らしい。日本は輸入した原料を独自の技術で製品化して、敗戦のどん底から這い上がってきた。モノを作ることはいいことだ。早い方がいい」という父の一声で、高校を3日で自主退学して弟子入りを決めました。 —— 修業生活の様子を教えて下さい。 35歳の熱血師匠に弟子入りした15歳の1日はとても長く、分刻みのスケジュールで動いていました。午前6時起床。掃除、市場へ買い出し、朝食の準備に後片づけ、そして8時半から仕事。昼も夜もおさんどんに明け暮れ、就寝前にデッサンの勉強をしていました。師匠は手を取り足を取り…なんて教えてくれません。 単純にマニュアル化できないから、見習いは文字どおり「見て習う」ほかに方法が無いのです。師匠の手先の動きや道具の使い方をひたすら見ていました。3か月目にいわゆるホームシックに罹りましたが、「モノ作り」の楽しさの力が勝っていたので脱走せずにすみました。月に2日の休日はありましたが、実際のところ散髪と洗濯以外は何もできませんでした。5年で年季が明け、師匠から特注の彫刻刀一式200本とスーツを頂きました。翌年からは「職人」の扱いで「お礼奉公」をさせてもらい、僅かながらも月給を頂けるようになりました。 ——渡米を決意した経緯は。 横浜で開催された路上パフォーマンス (1973年/ 22歳) 1972年に21歳で彫刻家として独立し、横浜を拠点に活動を始めました。全国の寺院や民家からの注文彫刻、そしてアクセサリー製作などを手掛けていました。そんなある日、「アメリカはでかいぞ、カリフォルニアの空は色が違う」と、ライオンズ・クラブの関係で海外を飛び回っていた知人の画家からアメリカ行きを勧められたのです。「ヒッピー」「ウッドストック」「ピーコック革命」「いちご白書」などの世相が日本にも伝えられて数年が過ぎていましたが、ギターを片手にフォークソングにもハマっていたことから、彼の言葉でアメリカがグッと近くに感じられたのです。そして、自分の彫刻でどこまでやれるか、可能性を試したくなった私は1976年に休暇を兼ねてロサンゼルスへ渡りました。でも、仕事の当てがあるわけでもなく、飛び込みで日系の建設会社に出向き、自分の作品の写真を見せながら営業に精を出しました。すると、ある社から「こんな立派な彫刻を購入してくれる家は紹介できないが、何か仕事はあるかもしれない。ここで働いてみないか」と、思いがけない言葉が返ってきたのです。そして、半年後に改めて渡米することを約束して私は会社を後にしました。その私を日本人の社員が追いかけてきたのです。話を聞いていたというその男性は、仲間同士で会社設立を考えていることを私に告げ、一緒に働かないかと誘ってくれたのです。 物件を購入して内外装に彫刻を施し、個性的な住居を作り上げる会社の方針に魅力を感じてその仕事を選び、半年後に改めてロサンゼルスにやって来ました。 —— … Read more