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| — — 現在所属しているサンディエゴ・バレエ団について話して下さい。サンディエゴ・バレエは1991年に非営利団体として創設されたプロバレエ団です。所属ダンサーは常時20名ほどおり、他のバレエ団と比べて各ダンサーの担当パートが多いのが特徴です。バレエと聞くと、日本では「難しくて高尚な芸術」というイメージが先行し、敷居が高いように思われがちですが、アメリカでは誰もが気軽に足を運べる雰囲気を持っています。私たちは、お客様に舞台の臨場感を味わって頂きたいという理由から、ホートンプラザやUCSD内劇場などの比較的小規模なシアターでパフォーマンスを披露しています。また、教育の一環として、サンディエゴ市内の各小学校を訪問し、バレエのレクチャーも行っています。
陽子さん(手前) 1歳半。姉と近所の公園にて
——サンディエゴ・バレエ団入団の契機は。 当初は研修生という形での採用でした。まだ労働ビザが下りていなかったので、3カ月毎にサンディエゴと日本を往復する日々が続きました。申請から1年半後にビザが下り、去年の10月から本格的に活動拠点をサンディエゴへ移すことになったのです。 —— 活躍の場を海外に求めた理由は。 バレエを真剣に始めたのは中学生になってからです。中学受験のために小学6年生の半年間はレッスンを休みました。復帰した時には仲間が私よりも上手になっていて「負けたくない」という思いが沸いてきたのです。それからは必死になって練習しました。徐々にバレエが面白くなり、いつしかプロになりたいとの希望を抱くようになりました。
『くるみ割り人形』の「金平糖の精」
(18歳の頃) ——プロになるまでの経緯は。 コンクール出場後、東京のスターダンサーズ・バレエ・スタジオに入所しました。アメリカ人の有名な振付師であるジョージ・バランシンやアントニー・チューダーの作品を備え、芸術的作品をレパートリーに持っているこのスタジオに魅力を感じていたのです。高校の授業が終わると、毎日スタジオに直行しました。学業との両立は難しく、試験前には一夜漬けの日々を繰り返していました (笑)。 高校卒業後の進路について考えていた頃、スターダンサーズの芸術監督である太刀川瑠璃子 (たちかわ・るりこ) 先生が昭和音楽芸術学院のバレエ科を開設するという知らせが入ってきたのです。太刀川先生から「第1期生として来てみたら」というお誘いを頂き、私自身の将来に繋がるに違いないと思い、昭和音楽芸術学院に進学しました。その後、1998年にスターダンサーズ・バレエ団に入団し、プロとしての生活が始まりました。 リハーサル中にも驚いたことがあります。日本では、ダンサーたちは足が痛かろうが体調が悪かろうが、決して表情に出すことなく、普段と変わらずに踊り続けることを求められます。それが本番でなく、リハーサルであってもです。「根性」を賞讃する日本的な美徳なのですが、その結果、楽しむ余裕が持てずに感情表現が欠けてしまいがちです。アメリカ人ダンサーは、リハーサルでは「調子が悪いから踊れない」と素直に表明することもあり、非常に人間的と言えます。指導者もダンサーを信頼しているため、その点では比較的寛容でしょう。「信頼されている」と感じることにより、ダンサーたちは伸び伸びと踊ることができるのです。本番で調子が良く、気持ちが乗っている時の彼女たちは、私がどんなに頑張っても真似ができないような素晴らしいダンスを見せてくれます。
ニューヨーク・セントラルパークにて(2004年2月)
—— サンディエゴ・バレエ団に入団して苦労したことは。 また、渡米した頃は自己主張ができなくて辛い思いをしました。日本では「周りからはみ出さないよう、仲間に気を遣いながら無難に踊っていきましょう」という環境の中に置かれていました。でも、アメリカでは自分の意見を明確に伝えないと周囲に分かってもらえません。そうでないと「何を考えているのか分からない」と思われてしまいます。今でこそ自分の意思を伝えられるようになりましたが、未だに仲間からは「おとなしいね」なんて言われてしまうこともあります。 —— 忘れられない出演作品は。 サンディエゴに来て初めてプリンシパル (主役) を務めたのが2003年12月。コロラド州とワイオミング州のツアー公演で、ダブルキャストとして『くるみ割り人形』の「金平糖の精」の役が与えられたのです。バレエ団で主役として踊ることは言葉に表せないほどのプレッシャーを感じるものです。過去に経験が無いだけに緊張しましたが、パートナーのダンサーにも支えられて無事に踊り終えることができました。この時の感動は一生忘れることができません。
スターダンサーズ・バレエ団の『海賊』(2001年)
—— 自分の人生に多大な影響を与えた人物は。 ある時、団員の体調が急に悪くなり、私が急きょ代役として舞台に上ったのです。心の準備もなく、混乱した頭のままで舞台に立たされた私は、「体調管理も仕事の一つなのに…。もしかしたら、彼女は小さな舞台で踊りたくないから仮病を使ったのでは?」と 納得がいきませんでした。気力で笑顔を作って踊り切りましたが、疲労困憊してしまい、家に帰るとホストマザーの前で号泣してしまいました。その時、私は全てのことに疲れて、物事をネガティブに捉えていたのです。すると、私のホストマザーは「人間として生きていれば、思い通りにいかない時もあるのよ。それを上手く乗り越えていくしかないじゃない…。あなたはプロとして正しいことをしたのよ」と、優しく励ましてくれたのです。プロとして歌っている彼女ならではの言葉でした。私は少しでも躓 (つまず) いてしまうと、すぐに落ち込んでしまうタイプだったのですが、ホストマザーの明るく前向きな姿勢に感銘を受け、どんな状況でも自分の弱さに負けることなく、物事を明るく考えるようになりました。
サンディエゴ・バレエ団の『青い鳥』。パートナーのケネス氏=アメリカン・バレエ・シアターのゲストダンサー=と (2004年2月)
——今後の目標は。
(2005年1月16日号に掲載) |