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| —— 現在の仕事に就いた発端を話して下さい。 大学に通っていた頃、脚本の執筆、自由詩や口語体の創作に興味を抱くようになりました。それは片手間で始めたことでしたが、地道に続けていましたね。演劇と執筆活動をしながら、UPS、空港、駐車係などの数多くの仕事に従事しました。長く続いたのは電器店のセールスマンで、私は販売員と倉庫係として働いていました。当時の私は、脚本家として成功するとは想像もしていませんでした。 アジア系アメリカ人劇団を紹介されたことが機縁となり、脚本だけでなく演技にも興味が向くようになりました。彼らは早いうちから「この作品を上演したい。オーディションを開いてはどうか」と私に提案するので、どうなるかと不安ながらも、オーディションを設定してキャストを集めました。その後で「次は何をすればいいのだろう」と思案していました。この初めての体験を通して、仲間である俳優、監督、脚本家から舞台や演技について多くを学んだのです。私はあらゆることを注意深く観察し、できる限りのことを頭の中へ叩き込みました。詩歌の創作も続けていましたが、舞台での演技が影響してか、その内容は人物描写に重点を置くようになりました。例えば、第442連隊戦闘団の一員であった叔父をモチーフにした人物が第二次世界大戦時代を追体験するなど、 登場人物たちがそれぞれの人生を語り始めたのです。 ——日系人として受け継いだ遺産を自ら活用したのですね。
Two of the real heroes from the 442nd Martin L. Ito (C-Company) and Jimmy Matsumoto (K-Company) along with the cast of“Only the Brave”at its screening in San Diego. Cast L-R: Mike Hagiwara, Greg Coatanabe, Tamlyn Tomita, Gina Hiraizumi, Lane Nishikawa, Yuji Okumoto, Mark Dacascos, Jason Scott Lee, Trace Murase, Michael Sun Lee, Ken Narasaki.
そうです。大学生だった私はこれらの事柄について常にリサーチを行い、多くのことを学んでいたのです。アジア系アメリカ人に関する内容は、全て私の執筆によるものです。当時の私は著書も出版して作家としても活動しており、サンフランシスコ州立大学から創作文章クラスの講師として依頼を受けました。ですから、私の最初の創作劇“Life in the Fast Lane”が上演を迎えるまでの数セメスターは教壇に立っていました。“Life in the Fast Lane”はアジア系アメリカ人の作家が出版を実現するまでの苦労を描いた作品です。作家とは如何なるものかをテーマに、私は登場する全てのキャラクターを演じました。この作品は全米19都市をツアーで巡ることになり、この時点で私は大学を辞めました。その後、再び大学へ戻って学位を取得しましたが、両親は当時の私を見て「息子は一体何をするつもりなのだろう」と不安に思っていたはずです。 —— “Life in the Fast Lane”のツアー後は。 その後のワンマンショー“Mifune and Me”では、今ではビジネスになった映画や舞台の世界で私が長年観察してきたイメージをベースにしています。メディアが私たち日系アメリカ人をどのように捉えているのか、三船敏郎をヒーローとする私がなぜこの国では彼のような存在になれないのか ̶̶ ということを検証しています。実際、三船敏郎は私にとってのジョン・ウェインでした。私は彼の全作品を観ていますが、それでもテレビで『七人の侍』が放映されていると、チャンネルを合わせて「また100回くらい繰り返して観なければ」と思ってしまいます。それほど、彼のキャラクターは飽くことのない時代を超えた存在です。そして、アメリカでは彼のようなヒーローが誕生することはないのです。 ——ハリウッドにおけるアジア系アメリカ人俳優の状況についての見解は。
Lane Nishikawa at the San Diego Asian American Film Festival last October.
私が“Life in the Fast Lane”のツアーでロサンゼルスを訪れた時、友人が彼のエージェントを紹介してくれたのです。私との契約を望んでいた彼らは、遠くベイエリアに住んでいた私を考慮してか、短いセリフで終わるような端役を紹介することはありませんでした。でも、これは20年前の話です。当時はアジア系アメリカ人が登場する作品は極少でした。今で言う “Lost”、“Crouching Tiger”、“Law and Order SUV”のような作品は皆無で、唯一知られていたのがブルース・リーくらいのものでした。 そんなある日、エージェントが「お勧めの役がある」と私に電話をしてきました。私はハリウッドまで駆けつけ、最初の台本読みに臨んだ後、今度は監督から連絡が入ったのです。「プロデューサー向けにもう一度台本読みをしてほしいのだが、その前に少し考えてくれないか。そこには大勢のプロデューサーがいて、彼らは既に君のテープを見ている。私は君を推薦しているが彼らはそうではない。なぜなら君の声は低すぎるんだ。それに逞しすぎる。君には俳優が欲しがる舞台での威厳を備えている。でも、プロデューサー達はそれが嫌いなんだよ。筋肉を落として、ダサいスーツを着て、細いメタルフレームの眼鏡をかけるんだ。そして、声を何とかするんだ。君の声は深すぎる」。私は「分かりました、やってみます」と答えましたが、言うまでもなく、その役を手に入れることはできませんでした。結局、私の友人が獲得することになりました。彼は私とは全く異なるタイプの男で、高めの声の持ち主でした(笑)。とにもかくにも、これがロサンゼルス、いわゆるハリウッドなのです。 キャストに関しては、先ず希望リストを作成して最初のオーディションを開きましたが、それは中断することになりました。私たちは誰を起用したいのかが明らかだったのです。第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団をベースにした作品の内容を耳にすると、誰もが製作に参加したがりました。皆がこのプロジェクトの重大性を感じていたのだと思います。こうして、私はキャスト募集を掛ける必要もなく、キャスティングを行うと言葉にした途端に450人が集まり、オーディションを始めることになりました。 最初のグループで私たちが目星をつけたのは、タムリン・トミタや当初は私の父親を演じる予定だったジョージ・タケイなどでした。そして、ユージ・オクモトが契約した後、マーク・ダカスコスも「オーディションをしてほしい」と電話をしてきました。私は「とんでもない、君にオーディションの必要はないよ。どの役を望んでいるんだ」と言って彼に脚本を送り、登場人物の中のある軍曹に注目してくれと伝えました。実は、彼が作品に興味を持っていると知った時点で私は脚本に手を加え、混血の民族性を持つ彼が快適であるように「ハッパ」という新しいキャラクターを登場させたのです。彼はこのアイデアにひどく感激していました。同じ頃、私たちはジェイソン・スコット・リーからの返答を待っていました。そして、彼から承諾を受けると、私は彼の役を中国人ハーフに設定しました。彼のキャラクターは先陣を切って一団をリードする役に最適でした。こうして、時折先が見えなくなりながらも、私たちは全てをやり遂げたのです。 —— 作品には当時の記憶や体験が盛り込まれていると思いますが、ご自身が演じたタカダ軍曹役の着想は誰から。 —— 作品の内容と史実とのバランスには苦労しましたか。
The staff of the SDAFF celebrates another successful festival and a job well done on closing night.
また、ハワイ出身の日系人兵士による第100歩兵大隊や、日系人志願兵で組織された第442連隊戦闘団の両方を登場させたいと思いました。そのため、出演者を第100歩兵大隊兵士と第442連隊戦闘団出身とに振り分けたのです。私たちは作品の細部に至るまで気を配りました。それぞれの隊には少しずつ異なるユニフォームやジャケットがありました。退役軍人たちの話によると、誰もが442連隊のジャケットを欲しがったそうです。それには多くのポケットが付いて、弾薬や食料を多めに詰めることができたからだそうです。私たちは第二次世界大戦で使用された本物の武器から軍用時計、コンパス、巻き煙草、ライター、眼鏡に至るまで、全て当時の物を使用しました。特に、その時代を体験した観客にはウソが通用しないため、制作側としては最大限の準備をしなければならないのです。 —— 舞台や映画の演出と経営を成功させる秘訣は。 私たちは85名のクルーを抱えており、皆が私の決断を待っていました。場面を変更するなり、脚本を手直しするなり、何をしてでも問題を解決し、全てを進行させなければなりませんでした。如何に綿密なプランを立てていようとも、避けることができないような困難もありました。例えば、森の中での激しい銃撃シーンの初日に撮影中断という非常事態も起こりました。私たちは許可を得ていたにも関わらず、警察署は報告を受けていなかったのです。間もなく、警察官、ヘリコプター、消防車が送り込まれてきました。私たちは騒音を聞きながら「一体、何事だろう」と話していました。何か重大な事件が起きていると思っていたのですが、実はその原因が私たちだったのです。このような出来事にいつでも対処できるように準備しなくてはなりませんでした。 —— 第100歩兵大隊、第442連隊戦闘団の退役軍人に伝えたいことは。 (2005年11月16日号に掲載) |